ゴッホの描いた人物
オーヴェール・シュル・オワーズでのゴッホの仕事においては、サン・レミ時代のたとえば『星月夜』や『冬の風景』のような作品に見られる危機的な混沌が、さらに入り組んだかたちでさまざまな力を及ぼしているようです。
彼がオーヴェールに来た理由のひとつは、そこでガッシェ医師の治療を受けることだったのですが、『医師ガッシェ』にも、そういう混沌が影を落としているように見えます。
それは、オランダ・ベルギー時代の肖像画はもとより、パリ時代の『タンギー爺さん』や、アルル時代の数々の肖像画の傑作ともずいぶん違います。
不安な蒼い眼をした医師の表情にしても、頬杖をついたポーズにしても、ななめに画面を区切る朱色のテーブルにしても・・・
背景のくすんだ青いかげのようなものにしても、がっしりと組み立てられてはいますが、アルル時代の肖像画のように、見る者のまなざしを正面から受け止めるといったふうのものではありません。
この医師の謎めいた内面に巻き込まれるといった印象を覚えるのです。
ゴッホが、この肖像画を描いたのは、オーヴェールに着いて1月ほど経った90年6月のことですが、テオへの手紙で、
「これはぼくがここへ出発するさいに描いた自画像と同じようなかんじだ」
・・・と言っていることは少し注意していいでしょう。
少しあとでゴーギャンにあてた手紙では、
「きみはオリーヴの畑を見たことがあるかね。
いま現代独特の悲痛な表情をしたガッシェ医師の肖像を描いている。
いうなればこれはきみが『オリーヴの園のキリスト』で語ったのと同じようなものだ」
・・・と言うのであって、ゴッホがこの人物のうちに、彼自身と内的に相通じるものを見て取っていることがわかります。
ゴッホがアルルで描いた人物は、ほとんどすべてが郵便配達夫とか軍人とかいった人びとであって、彼と、ガッシェ医師のようなかかわりを持つ人物はいなかったのです。